メイカーズムーブメントに乗り、活況に沸く3Dプリンタ市場。低価格機が数多く登場したことなどから、業務用途としての利用から一般用途まで幅広い領域で、盛り上がりを見せている。しかし、3Dプリンタは決して新しい製品ではなく、20年以上の歴史を積み重ねてきたものだ。その間には普及に向けた何度かのチャレンジがあった。かつて研究の最前線に立っていた識者には今の3Dプリンタのムーブメントはどうのように映るのだろうか。東大名誉教授で、現在は台湾 鴻海精密工業(フォックスコン)グループにおいて、顧問を務めているファインテック代表取締役社長の中川威雄氏に、話を聞いた。
積層造形にのめり込んだ
MONOist 3Dプリンタとの関わりについて教えてください。
中川氏 3Dプリンタが1980年代に登場する以前から、関連技術などで関わってきたといえるでしょう。類似の技術である積層金型の研究を行っており、1979年頃にこれに関連する論文を発表しています。当時はスライスデータを作るソフトも存在せず、輪郭2Dデータを計算し、いちいち入力していました。しかし、1980年代後半になって、液体の光硬化性樹脂をレーザの紫外光で固める自動装置が登場しました。これを知ったときには、その素晴らしさにひどく感じ入ってその研究にのめり込んでいきました。またその頃は次から次へと新しい方式が生まれた時期でもありました。その中に積層金型に近い紙積層の方式もありました。
これらの動きを踏まえて、1990年代に、日本の型技術協会の中に「ラピッドプロトタイピング研究委員会」を作りました。積層造形技術を中心とした情報交換や普及活動を行い、毎年の公開研究会も行いました。この技術の中心地は米国でしたので、毎年のように訪米しメーカーを訪ね国際会議や展示会に参加しました。また2000年には日本で初めての国際会議を開催しました。国家プロジェクトとして、樹脂積層造形による消失模型を使った精密鋳造実験などを行ったこともあります。
なぜ当時は壁を破れなかったのか。
MONOist 当時、3Dプリンタの普及にどのような可能性を感じていましたか。
中川氏 新しいモノづくり手法の誕生だと感じていました。しかし、今のように一般ユーザーも巻き込んだ形を想像していたわけではありません。「ラピッドプロトタイピング」とも呼ばれるように、当時私が考えていたのは、CADの普及とともに生まれた開発試作用の1つの有力な手段という位置付けでした。
例えば、当時こんなこともありました。金属用の直接造形機が登場した時に、米国では「金型製造に使える」というムーブメントが起こりました。しかし私は直接生産には従来技術の方が優れていると考えていたので「3Dプリンタで、切削加工における高速ミーリングには対抗はできない」と主張していました。その後さまざまなやりとりがあり、米国では「金属造形で金型産業を再構築する」という動きが起こりましたが、最終的には形になりませんでした。
MONOist 当時はどういう課題があってブレイクスルーに至らなかったのですか。
中川氏 われわれが想定していた領域において実際に活用されているケースはありました。ただ、全体を通してみると、適用材料が限られ、コストも高く、精度も悪いということが課題となり、ブレイクスルーといえるほど普及しなかったというのは事実としてあります。
この課題は再び3Dプリンタが脚光を浴びる現在でも、根本的には解消されてはいません。改善が進んだことで適用できる領域は増えているのは事実です。しかし、コストを考えた場合、既存の技術や製品に対抗できるものは限られた領域でしかないと考えています。
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